三州豊橋の二連木という所に一人の乞食坊主がいた。名を宮川藤衛といって、四五年前まで生きていた。
かつて愛知銀行豊橋支店で、主な預金者を招待したことがある。その時、この乞食坊主が同行に十万円の預金を持っており、預金者頭というところから首席に着いて一座を驚かせた。乞食坊主でありながら、十万円の銀行預金があるというのが、すでに変わっているのに更にこの坊主には女房もなければ子供もなく、自分一人がせま屋に住んで、普通の乞食にも真似の出来ない粗末な生活をして一生をおくった。
この乞食坊主に、「金ばかり溜めたってつまらんじゃないか。少しは贅沢をしてはどうか。また愛知銀行に安い利息で預けておくより、株でも買って有利にまわした方がよかろう」などと勧める者があったが、坊主は馬耳東風と聞き流して一切耳を傾けなかった。その理由がまた極めて簡単である。「衲僧が人の門前に立って、アーンとお経を読んで、一銭二銭ともらった刹那の愉快さは何ともいわれぬいい心持ちだ。もらった金は楽んだ後の粕だから、どうなろうと介意するに足らぬ。だから、銀行へ放り込んでおくんだ」と。何と大悟徹底したものではないか。これでは、澤尊も達磨もこの坊主には及ぶまい。
ここに、私が月旦しようとする原田二郎は、けだしこの坊主の輪郭を大きくした者ではなかろうか。
奥州六十四万石の領主仙台様の、有名な伊達騒動、その謀反の立役者は原田甲斐であった。原田の苗字は、何となく悪党らしい感じをあたえる。二郎も、原田を姓とするから、悪人のように誤解されるが、その実、何一つ不正の行為はなく、公明正大の道を踏んで今日の富豪となった立派な紳士である。
原田は、紀州藩に属し、伊勢の松阪で生れた。幼少の頃、漢学の教育を受け、長じて東京に出て役人になり、大蔵省の銀行課に奉職した。その頃、たしか明治十二三年と覚えているが、どうしたはずみか、紀州出身の大実業家岩橋轍輔の知己を得、原田は岩橋に惚れられてその長女を妻君にもらった。
その後、原田は、岩橋の推挙により、役人を辞めて横浜の七十四銀行頭取になり、後ある事情のために七十四銀行と関係を絶って故郷へ帰った。そして、その当時持っていた小金を資本にして、独力で汽船業を営み、傍ら金貸しをやり始めた。
原田は非常に算盤に明るかった。この点では、安田善次郎も遠く及ばない。かつ、金貸しの名人で、貸し倒れにあったことは前後を通じて一度もなかっという。
私が懇意にしていた平沼専蔵は、金貸しとしては評判の人物で、かつて私に「全盛の時は一ヶ年百万円貸して、三十三万円の利息を挙げた」と自慢したことがある。それ程、金貸しの名人だったが随分貸し倒れも多かったように見える。だから、高利をとっても、貸し倒れの分を差し引きすると、あまり儲かっていなかったようだ。平沼の資産が大をなしたのは、金貸しで儲けたからではなくて、平沼が投資した日本銀行、正金銀行の株式が騰貴したのと、安い時に買っておいた東京横浜の土地の値上りによるものらしい。原田は平沼ほど高利はとらなかったようだけれども、貸し倒れが無かったから、平沼とは反対に、株式や土地の思惑で儲けたのは極めて少く、金貸しで今日の大資産を作り上げた。
原田は、思惑が大嫌いだった。数字的に動かすべからざる信念の下に、富を蓄積することをモットーとしていたからだ。だから、土地にしたところで、彼の所有にかかるものは、現在住んでいる麻布の地所に茅ヶ崎の地所くらいのものだ。また株式では、久原鉱業会社ーー現在の日本産業会社ーーの設立当時相談にあたったために、同社株を引き受け、これを高値で売却して利益を得たくらいのものだ。