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各務鎌吉(1)

 私がこれまでに批評した人物は、私の先輩か、でなければ一面識もない人々だった。荘田平五郎益田孝の如きは前者、原田二郎鬼頭幸七の如きは後者に属する。だが、ここに引き出した各務鎌吉は、私の年来の親友で、私が実業界を引退するまでほとんど毎日海上ビル内中央亭の食堂で昼飯時に顔を合わせて、いろいろ語りあった間柄だ。各務個人とばかりでなく、その家族及び各務の親友ともまた昵懇だから、もし読者諸君にしてお望みとあらば、各務の尻の穴の毛が何本あるかまで、委細取り調べてお話が出来る。従って、その人物経歴についても、ちょうど浄瑠璃の鏡に照らすように少しも粉飾を加えず、想像を交えず、ありのままに描き得る便利と自信がある。
 けれども、本編の冒頭で述べたように、人間万事三割嘘、七割本当だからこそ面白いので、十割が十割皆事実で固めた各務の人物評のようなのは、読んでも面白味がなからろうと思う。が、どうしても各務を一枚加えねば私の気が済まぬ。
 各務は、岐阜市を去る二里、稲葉郡方県村の産まれだ。方県村はその昔芦敷村といい、源義朝が平家に滅ぼされた時、その一族に芦敷太郎という者があって、美濃に逃れ、その所を芦敷村と呼んだ。この芦敷太郎が各務の先祖だという。また一説によると、各務は甲州源氏の落武者各務美濃守の後裔だともいう。どちらが本当か判らぬが、各務の強情張りの性格から察すると、甲州源氏の末孫だという方が正しいように思われる。
 遠い祖先はそれとして、各務の家は、郷士であり、代々庄屋を務め、その祖父は侠客肌の人で、よく村のために尽くした。かの薩摩武士の切腹事件で名高い美濃の三川分流工事に努力したこともある。
 各務の父は、維新当時郷里を出て京都へ行った。風雲の急に乗じて一旗あげるつもりだったと見える。そして、暫く公卿奉行をしていたが、後東京に出て、大蔵省の属官になり明治十八年頃死んだ。各務は当時、一橋の高等商業に在学中であった。
 父が大蔵省の小役人というんだから家は勿論貧乏だった。そこへ親爺に死なれたので、学校を出て僅かの月給で三菱の社員になったばかりの兄幸一郎は、鎌吉の学費捻出に余程苦労したようだ。そうこうする中に、各務は二十一年に一橋を卒業して、大阪商品陳列所の書記になった。その後、京都の商業学校の教諭に転じた。
 ところが、ここに突然各務の身の上に変化が起った。すなわち、当時の東京海上保険会社支配人益田克徳と親戚の間柄だった一橋の学校長矢野次郎の推薦で、二十四年十月、月給十円で東京海上に入社したのである。これが、彼の実業家としての出発点になった。
 話は少しそれるが、明治八年頃、二十余名の有力な旧藩華族が共同して、京浜間の官有鉄道払い下げの認可を得、代金を年賦で上納したが、中途で支払い困難に陥り、明治十一年に解約、既納年賦金六十余万円の還付を受けた。その時、岩崎弥太郎、渋沢栄一両人の勧誘で、この資金で両人と共に海上保険会社を設立することとなり、十一年十二月政府の認可を得、十二年八月一日開業した。これが今日の東京海上保険会社で、本年まさに創立五十年に当たる。我国における保険会社の嚆矢であるばかりでなく、西洋式の株式会社としても我国最古のものである。
 創立当時の資本金は六十万円(全額払込済)で、発起人にして何時に創立当時の役員は左の如き顔振れであった。

取締役 蜂須賀茂昭(頭取)
    伊達宗城 柏村信
    二橋元長 寺西成器
相談役 岩崎弥太郎 渋沢栄一

各務の入社当時、社員と称する者は僅に数名に過ぎなかった。書記の筆頭で、営業方面を担当したのが玉江文太郎、この人は永く会社に勤続し、晩年監査役になり、二三年前死亡した。各務入杜の詮衡をした人で、常に「会社の今日あるは、全く各務の力であることは万人の認めるところだが、その各務を拾い上げたのは自分だから、論理上推論すると、会社の今日あるのは全く自分のお陰だ」と誇っていた。
 玉江の他に、社員として羽生久安、河田建、浅井鋼一郎らがいり、営業所は、日本橋茅場町にあった。資本金は当時増資して百二十万円となり、重役は池田茂政(備前侯)、水原久雄(備前侯の家来)、武田正規(越前項の家来)、藤本文策(蜂須賀侯の家来)及び三菱を代表して荘田平五郎が加わっていた。