明治四十一二年の頃、日露戦後の大景気の反動で、世の中は不景気のどん底に沈み切った。桃サン一つ景気直しをしてくれいと乞われるままに、物好きな私の事だから惣ち快諾早速菊地秋叟に頼んで清元を唄いながら舞うという、何のことはない清元歌劇というのを一曲作ってもらった。それを、藤間勘右衛門の振り付けで、新橋の連中に稽古をさせ、これを余興として朝野の名士を掻き集めて、盛宴を張ったことがある。まず政治家では西園寺公望、桂太郎、伊東巳代治、金子堅太郎ら、実業家では豊川良平、早川千吉郎、近藤広平、加藤正義ら、それから株式関係者からは小池国三、福島浪蔵、村上太三郎ら約八十名。これを四回に分けて招待したのだが、桂を呼ぶ時には西園寺を招かず豊川を加え、伊東を呼ぶ時には金子を加えないで早川を招くといったように、政治家実業家ごた混ぜで集めた。当時は、なお官尊民卑の弊風は全く去らず、豊川、近藤らは相当その存在を認められていたけれども、株式仲買人に至ってはほとんど問題視されなかったのである。これを、時の大官と一緒に呼んだものだから、果せるかな、桃介はけしからん、味噌も糞も一緒にすると言うので、当時世上の噂に上ったものだ。また大官の中には、これら株式仲買人と同席することを潔しとしなかった者もあったようだが、主人が桃介だから、もし欠席でもしようものなら、後の祟りが…と言うので、嫌々ながら出席した者もあったそうだ。謀計画に当れりと、私は心中秘かに抱腹に堪えなかった。
その時、私は親友山下亀三郎をも呼んだ。ところが後で「…福沢は随分無礼なことをする。福島、小池のような株屋はまだしも、あの泥亀を吾人と同席させたのは甚だ以て怪しからん」と憤慨した人がいたことを耳にした。
しかし、その泥亀先生、欧州大戦中船で当てて一躍大成金になり、一夕東京随一の旗亭濱町の常盤屋において朝野の紳士を招き、一大宴会を催した。私も招かれて席に列したが、その時主人公である山下のお膳の前に端坐して「今夕はご丁寧なお招き、数々のご馳走にあずかり、ありがたく一献お流れを頂戴致したし」と恭々しく挨拶している人がいる。何心なく私がふいと横顔を覗くと、あに図らんや、その人こそ先年山下を泥亀と罵り、同席を潔しとしなかった貴顕その人だったのだ!
山下は、郷里の先輩今西林三郎の後援によって、横浜で石炭を取り扱い、また喜佐方丸他二艘の船を持って海運業をやっているうちに、日露戦争にぶつかり、借金を抜いて一時百四五十万円の金が出来た。市原盛宏が第一銀行の取締役になり、第一銀行の朝鮮探題として赴任することになったので、山下は市原が経営する北海道における木材業を引き受けることになった。市原の第一入りは、山下が朝鮮統監伊藤博文と渋沢栄一の間の斡旋を大いに努めた結果であるから、自然市原の仕事を山下が引き受けざるを得ないことになったのである。山下はその木材事業と、田中清一経営の天監木材とを合併し、資本金百五十万円の小樽木材会社を創立して、田中を社長、自分は取締役になった。
これまで、ただの素町人だった山下が、ともかく会社の重役という肩書きがついたのは、これが初めてであった。勢い、気も心も驕ったであろう。無理もないことだ。殊に、日露戦争後で、権利株が飛ぶ世の中だったから、山下は小樽木材を百五十万円の四倍、すなわち六百万円に増資し、この株で一儲けをしようと多大なプレミアムをつけて株を買い集め同社の最大株主となり、何百万円の暴利を夢見ていた。ところが四十年春の一般株式の暴落で、小樽木材株はめちゃめちゃになり、折角石炭と船で儲けた虎の子の百四五十万円の金が吹っ飛んでしまい、反対に百四五十万円の借金が出来、山下は毎日借金の言い訳と手形の切り換えに浮身をやつす憐れな境遇に陥った。前記私が朝野の名士を集めて盛宴を張ったのは、ちょうど山下がそういう奈落の底に沈んでいた時であったから、誰も彼を相手にしなかったのだ。