私は当時意気消沈の山下を、貴顕紳士たちに紹介して、山下開運の途を開かせようという親切から山下を呼んだのではない。東京の名士の多くは、人格において山下よりも遙に劣等なるに、臭いもの身知らずで、只泥亀泥亀と言って山下を排斥する者が多いので、一番彼らを困らせてやろうという私一流の悪戯から山下を呼んだのだった。
その夜山下は、始めて当時の銀行界の権威者豊川良平に面接したが、豊川は山下を気に入ったと見えて、これから二次会を開いてゆっくり飲もうというんで、豊川、山下、それに仙石貢、野間五造、伊藤鉄亮の五人が、あるお茶屋で十二時過ぎまで痛飲歓談したという。二三日経て、豊川が私のところへ礼に来ていうには、「世間では山下のことを泥亀々々といって嘲るが、初めて会って話して見ると、仲々の人物だ。将来大いに成功するだろう」といって、山下の人物を賞讃した。豊川も私と同じひねくれ者だから、世間が悪くいうので却って褒めたんだろうと思う。
豊川の予言通り、この山下が後年大成金となって一生を風靡し、常盤の宴会に、先年泥亀と罵った人物に、そぞろに叩頭させた一事は、私の衷心歓喜に堪えぬところである。(山下を泥亀といって同席を憤慨した人のあったことは、今迄山下にはもちろん、一切口外したことがないから、山下がこの記事を見て如何なる感を起こすだろうか?)
とにかくするうちに、山下はこの難関を切り抜けて、四十四年勅戸に店を持って相変わらず海運業を営み、大正三年欧州戦争勃発前には、五艘約一万トンくらいの汽船を持つようになった。ところがすなわち欧州の開戦で、船価も運賃も日増しに騰貴し始めたので、自然山下の懐も暖かくなり、ついで一挙に大儲けをしようとの野心を起こして、大正四年、川崎造船所がストック・ボートを造り始めたことを聞き、九千トン級の船を買収すべく、松方幸次郎に掛け合って、トン百五十円、すなわち百三十五万円で売買の相談が成立した。それはいいが、当時山下の資産信用はまだ充分でなかったから、川崎造船所は山下に相当の手付金を入れるか、信用あるものの保証状を出せという。山下とて金の忙しいときだったので莫大な手付金は積みかねる。そこで、平素面倒を見てくれる第一銀行の佐々木勇之助を口説きに行った。その時佐々木は日下義雄と碁を打っていたが、「よろしゅう御座います」と、早速山下の資産信用は百三十五万円の約束を履行するに充分である旨の手紙を佐々木が書いてくれた。山下は佐々木がこれを書いてくれるかどうかと、内心ビクビクだったから、この手紙を掴んだ時は、天にも上る心地がしたという。
山下が、これを買約するや否や、般価は鰻上りに騰貴して、船が進水する頃、山下はイタリア政府にトン四百三十円、すなわち三百八十七万円に転売し、一挙に二百五十二万円の巨利を博した。五年六年と山下の事業は順調に進み、大正七年、山下全盛の年には、一ヶ年に二千九百万円の利益を挙げたそうだ。
早川千吉郎は、番町に大邸宅を構え、大いに書画骨董を買い込んで、盛んにお客をしたものだ。染附捻じの酒飲みを何十人前とか、早川が持っているというので評判だった。そして早川は、お客をする度毎に道具屋を席に侍らせ、その価が貴いことをお客に吹聴させて得々としていった。山下も一夕招かれてこの説法を食ったものだが、何しろ一ヶ年に二千九百万円も儲かる時だから、腹の中で冷笑していた。のち山下も、自ら冷笑した早川にかぶれて、捻じの染附の盃を買い漁り、高価な書画骨董を法外な値段で煽ったりしたものだ。
これも長続きはしなかった。一般の船持と同じく、事業は段々儲らなくなった。これではいかぬと大正十四年の春、山下は書画骨董の全部を売り払って、大いにふんどしを締め直し、真面目に事業を経営することになった。
山本唯三郎も船成金だった。よく山下の引き合いに出されて新聞雑誌に、その成金振りを言われたが、山本は山下に較べれば、比較にならぬほど小さいものだった。山下自身も、山本と同じ様に書かれるのを気にして、「世間が俺と山本とを同じレベルで見るのは怪しからん」と嘆声をもらしていた。そこで私は山下に向って「君は山本よりも数倍の金持ちかも知らないが、金の使い振りがケチだからいけない。山本の様に一芸妓に数万金を放ち山本のように虎刈りでもしたら、君の方が偉いということになるだろう」といって聞かせたことがある。
山下が大成金になったにもかかわらず、存外の締り屋で、一時一寸浮かれて書画骨董を弄んだものの、翻然悟る所あって処分してしまったところなどが、山下をして成金没落の悲運を免れしめ、今日世界で一二を争う船舶業者に仕上げたのだ。すなわち、山下汽船は、その資本金二千万円で、本店は神戸にあり、東京、横浜、大阪、門司、小樽、基隆、台北、浦監、ハルビン、大連、青島、上海、香港、西貢、シドニー、ロンドン、シアトル、桑港等内地はもちろん、海外枢要の各地に支店出張所を置き、南洋、アフりカ、欧州と世界いたるところに代理店を設け、八九十万トンの船を運用しているのである。