ページ

辰馬吉左衛門(1)

 我財界には、日清、日露、欧州大戦を利用して、船で巨富を作った者が甚だ多い。就中欧州戦争は、世界的な大戦であったのと期間が長かったので、大小の船成金が続出した。もちろん、中には戦後の反動で、元の黙阿弥に還った者もあるが、なおそのままの金持ちであるばかりか、一層その富を殖やした者も少なくない。岸本兼太郎、広海仁三郎の各五千万円、乾新兵衛八馬兼助の各四千万円、板谷宮吉の三千万円、岡崎藤吉の二千万円等はその例だが、中に辰馬吉左衛門は嶄然群を抜き、その資産は八千万円といわれている。否、八千万円というのは現金だけで、他に本業の酒造を始め、船舶、土地、株式等を合算すると吉左衛門の総資産は、一億二千万乃至一億五千万と評価する人もいる。一億五千万とすればもちろんだが、内輪に八千万としたところで、いずれにしても住友に次ぐ関西の大金持ちだ。
 西宮には、昔から他所では珍らしい馬の字がつく姓を名乗る家が多い。昔は十二馬あったというが現在では辰馬、八馬、音馬、葛馬、早馬、小上馬、六馬、一馬の八姓が残っている。これは西宮に鎮座まします福の神、戒神辻に古い馬の伝説があって、古典による往昔の祭礼行列に氏子から選ばれて、神馬に携わった人達が祖先であるという。
 辰馬家は始め酒造を業とした。すなわち寛文二年今から約二百六十余年前、当時の主人吉左衛門(この人は元禄五年六月六十五歳で没した)が、邸内に井戸を掘ったところが、清冽無比の良水を得たので、当時この地方に勃興機運であった酒造業を想い立って営業するに到ったと伝えられている。それ以来引き続いて十三代現今に及んでいる。副業の海運業も酒造に次いで相当古くから営まれ、大和船の昔から西洋型帆船時代を経て、現在の汽船時代になったものである。
 辰馬吉左衛門は、明治元年五月、銘酒白鷹の醸造元辰馬(現在の悦蔵)家に生まれ、幼名を篤市と呼んだ。明治二十九年十月、銘酒白鹿の本家辰馬たきの養子となり、明治三十年十月、家督を相続して、吉左衛門と改名、今日に及んでいる。
 酒は、銘酒白鹿の醸造である。年産四万石に達する。石あたり二百円とすれば、一年八百万円の取引があるわけだ。外に黒松白鹿の年産三千五百石がある。白鹿に較べれば、醸造高は少ないが、白鷹と共に天下無二の芳醇として重きをなすは、世人周知の通りである。
 辰馬は、商売上にかけて何事にもよらず非常に熱心な研究家で、それに時々霊感が働く。想い起せばたしか欧州大戦開始直前、一族の辰馬半右衛門が大小の汽船三万トンを持てあましていた事がある。例の霊感から、辰馬は近い将来に必ず何事か世界的一変事が起こるに相違ないと睨んでいた矢先だったので、早速これを二十九万円という当時としては破格の安値で買い取った。同時に、持ち船の修理を始め、社外船にかなり大口の傭船契約をした。はからずも、これが辰馬開運の振り出しとなり、億に近い彼の大資産も、これによって出来上がった。すなわち、その後二三ヶ月すると、欧州大戦が勃発し、船腹の不足と鉄価の急騰で、船価と傭船料は天井知らずの暴騰を演じた。そこで、先に契約した傭船や持ち船はもちろん、辰馬半右衛門から買い取った三万トンを動きずめに動かした結果、当時毎月百万円の大金が彼の懐に転げ込んだという。試しに戦前、戦中、戦後における定期大型傭船料を示すと、ざっと次の通りだ。

定期傭船料

戦前     2.00円
       2.50円
大正5年1月 12.00円
 同  6月 15.00円
 同 12月 15.00円
      16.00円
大正6年1月 16.00円
      17.00円
 同  8月 35.00円
      47.00円
 同 12月 30.00円
戦争直後  2円内外
現今    2円78銭

すなわち、戦前二円乃至二円五十銭の傭船料が、大正六年八月には三十五円乃至四十七円と約十八倍から二十四五倍に吹っ飛んだのである。船価の暴騰と、運賃、傭船料の馬鹿高で辰馬がいながらにして、大儲けをしたのはいうまでもない。