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片岡直輝(2)

 片岡の関係事業会社は随分多かった。大阪ガス広島ガス広島電気軌道、堺ガス、阪堺電気軌道南海電鉄阪神電鉄浪速銀行大阪株式取引所等。その中、阪堺電軌は原内閣当時、奥繁三郎大林芳五郎らの名によって出願され、大坂惠美須町を超点として浜寺に至る電鉄だが、南海電鉄と並行線になるから、南海、阪堺は双方鍋を削って大競争を始め、谷口房浩らが仲裁に入って、阪堺は南海に合併されてこと落着した。当時の南海の社長は大塚惟明だったが、片岡が代わって社長になったのである。阪堺は新設されたばかりの会社、それが歴史あり基礎のある南海と対等の合併が出来、しかも被合併会社の首脳者が合併会社の新社長になったのだから、これを以てしても、如何に片岡の威力の大きかったかが知れよう。
 また、片岡が永く社長として最も力を入れたのは、大阪ガスである。この会社は初め、ニューヨークの素封家ブラディーと大阪の実業家の共同出資によって出来たものである。いよいよ会社が設立されるや、時の大阪市長鶴原定吉は、このような公益事業に関して、道路管理権のある大阪市に対し前もって何等の相談も持ち掛けなかったのはけしからんと、片岡の処置に大いに憤った。それに大阪言論界の両雄、大阪朝日は市長を助けてガス会社に反対し、大阪毎日はガス会社に加担して双方火花を散らし、朝日は連日大演説会を開いて世論を換気するなど大騒ぎを始めた。しかも、鶴原と片岡は、日銀在職中の同僚で、進退を共にした程の間柄である。それも、ガス問題から感情が疎隔して、会っても言葉さえ交わさぬ仲になってしまった。そこで、当時大阪の大元老藤田伝三郎が起こって仲裁の労を執り、大阪市対ガス会社の報償契約を取り結んで、さしもの大問題もここに円満に解決した。これが、我国における市対会社の報償契約の濫触であるという。
 片岡は、こうして同僚であり親友である鶴原と喧嘩をしたが、偶然にもまあ同僚親友だった植村俊平と相い争う奇縁に遭遇した。それもまた植村が大阪市長時代のことだったが、大阪市南区に大火があった。これを利用して市は電車予定線を変更した。その結果、大阪ガス岩崎工場の敷地一部の収容、並びに木津川架橋問題が起こった。もし市のいう通りにするとガス会社の石炭の荷揚げが困難となり、かつ敷地を収用されては地形上甚だ不利になる。片岡は時の内務大臣原敬、大阪府知事犬塚勝太郎とも昵懇の間柄、そこで片岡がこれらの大官を操って、市の電車予定線変更の許可を遷延させているのだという風に、大阪の各新聞が書き立てて、そしてその復讐として、市はガス会社に対して遊路使用を禁ずべしとの運動が起って、約半年にわたり紛争が解けなかった。けれども、片岡の力が強かったのか、植村はこの問題のため辞職の止むなきに至った。馬鹿を見たのは市長の提燈持ちをつとめた朝日新闇で、社長村山龍平は植村の不甲斐なさにひどく憤慨したという。
 鶴原は、片岡と妥協して事を片づけ、植村は片岡に対抗し切れずに退却の止むなきに至ったのだから、鶴原と植村の人物の相違もこれで判断出来るが、ともかく、一営利会社の社長の身を以て、その監督者である市長と戦って一は対等条約を結び、一は屈伏せしめた片岡の勢力は、おおよそ想像されようと思う。
 これから見ると、現在の東京市に対する東京ガス会社の意気地なさ加減は、憫笑するに堪えたりといはねばならぬ。
 由来、日本人は嫉妬深く、人の成功を羨む悪い僻がある。だから、少し頭をもたげる者が出ると、これを助けて大成せしめるどころか、足をとって引き摺り落して快哉を叫びたがる。大阪は東京に較べると、やはり田舎でこの悪癖は一層ひどい。本人不徳の然らしむる所かも知れぬが、松本重太郎、岩下清周らはその好例だ。この間にあって片岡は晩年においてこそやや勢力が衰えたとはいえ、昭和二年、七十二歳を一期として死ぬまで、大阪財界に明星の如く輝いたのはそも何のためか。
 川田小一郎は、片岡の親分である。その親分の川田は、金を上手に使ったのと、人物を養成することによって大をなした。片岡は川田を手木として世に処したが、川田の日本銀行におけるような財源がない。あるとしても、貧弱なガス会社ではどうにもならぬ。だから専ら人物の養成に意を用いて、人の世話と仕事の世話に全力を注ぎ、要所要所にそれぞれ人物を推薦配置した。すなわち、山口銀行に坂野兼通町田忠治、三十四銀行に小山健三、大阪電灯に田所美治、大阪軌道に大槻龍治、豊国火災に大谷順作、大阪電灯に菅沼達吉、なお後に藤田組の人となった坂野鉄次郎、南海鉄道に岡田意一、また大阪市長だった池上四郎、同じく助役の有田邦敬らも片岡の斡旋でその地位を得たのだ。島徳蔵、この男も、産を成したのは自分の力だろうが、その地位を得たのは片岡の庇護に負う所が多い。貴族院議員に勅選され、現に南海鉄道の社長である渡邉千代三郎が、片岡の直系乾分であるのは、世人周知の事実だ。