大正三年の頃、欧州戦争が始まるや、北浜銀行が破綻した。頭取岩下清周が社長を勤めていた大阪電気軌道会社は、その余波をうけて金融全く途絶し、当時工事を請け負った大林組は、大軌から請負金の大部分を支払って貰えないので、破産の瀬戸際に迫られた。大軌並びに大林組から、その救済方を依頼された片岡は、よしというのでまず大軌内閣を改造し、大槻龍治を社長にすえ、永田、藤野らの有力者を取締役にして、整理してしまって、遂に大軌を復活させ、同時に大林組を救いあげた。また、浪速銀行は、経営者の怠慢から業態が悪化し、そのままにしておいたならば破産の悲運に陥らさるを得ないので、片岡は薩摩系統の十五銀行と合併し、以てこれを救済する案を立てた。最初、松方正義は、この合併に反対したそうだが、片岡の熱心な運動によって合併が成立した。後年この銀行は破綻したが、ともかく一時没落を免れたのは、全く片岡の力である。
片岡は極めて無愛想だ。弟の直温ほどではないけれども、初めて会った人は、何となくいやな心持ちがする。だが、付き合っていると、だんだん味が出るといって、一度つきあった者は生涯交情を絶えないという。
片岡は、身の丈五尺三寸位、いわゆる中肉中丈で、身体強壮、母が八十何歳まで生きたという長生の血統だから、八十歳以上は無論生きられたであろうが、実業家の通弊として、花柳の巷に出入りする機会が多く、不養生のために比較的早死したのだろう。
片岡の長所は、何といっても、その親分肌にある。それに胆力があり、剛情我慢で、思慮もある。学者という程ではないが、仏語をやり、英学も相当に出来た。
また、顔に似合わぬ粋人で、風流韻事を解し、南地の旗亭大和家を陣所として、大和屋会なるものを組織し、毎月友人乾分を集めて歓談したものだ。その会に出席する者は、大阪一流の紳士、すなわち、永田仁助、渡邊千代三郎、平瀬三七雄、坂仲介、野村徳、島徳蔵、松方正雄らであった。片岡は大の左利きで、常に白鷹を愛用し、宴会にはもちろん、旅行中でも、必ず白鷹を携帯して、これをちびりちびり飲んで、得意満面となり、酔うと必ず意気な喉で一手販売の都々逸を唄った。
白鷺が小首かたげて
二の足踏んで
やつれ姿を水鏡
二の足踏んで
やつれ姿を水鏡
※
つたかづらからみつく程
思いはあれど
先に気がなきや是非もない
思いはあれど
先に気がなきや是非もない
※
三日月さんは痩る筈だよ
ありややみ上り
それにからかう杜若
ありややみ上り
それにからかう杜若
※
土手の芝人にふまれて
一度は枯れて
露のめぐみで甦へる
一度は枯れて
露のめぐみで甦へる
※
惚れましたと言うもはずかし
不器量な女
ものかず言わずに苦労する
不器量な女
ものかず言わずに苦労する
これは、彼得意の都々逸で、また彼は、成駒屋の声色が上手だったという。
片岡は、安政三年七月三日に生まれ、昭和二年四月十三日に死んだ。四月十三日といえば一代の英雄後藤新平の死んだ日だ。また十三という教字は西洋人の気にする数だから、覚えやすい日だ。片岡の恩顧を受けた人々は、この命日を忘れずに念仏供養を怠ってはならぬ。