そもそも方位学は、推古天皇の九年、百済国王が僧観勒なる者が、天文地理遁甲方術等の書を献じた事から、始めて我国に伝わった。けれども、当時の文化はまだ幼稚で、方位学も存するが如く存せざるが如きものであったが、聖武帝の時、遣唐使多治比広成が留学生の吉備真備と相携えて帰朝し、唐礼陰陽太衍暦等の書を献じ、ついで陰陽道を司り、遂に台鼎の題位についた。それ以来、朝廷もまた斯道を重んじ、普く海内に布き給い、久遠に伝わるに至ったものである。しかし学の本原というべきは、易の河出図、洛川書から出ている。すなわち、天地の本一太極をなす、分かちて陰陽となし、また分かちて五行となす。その数はすなわち河図となし、洛書となす。時日支干方位と配当すれば、すなわち吉凶禍福を予知することが出来るのである。
現今でも、実業家中方位学の造詣が深い者は少なくない。大阪の松岡修三は今年七十歳位だが、何千万の大金持ち。吉田定七、先代伊藤伝七また然り。東京では近藤廉干を数える。
近藤廉平、この人くらい近代の実業界において、幸せな人はなかった。生まれは徳島で、土佐の人でもないのに岩崎に重要されてぐんぐん先輩を押しのけて出世した。生前は茶屋遊びも盛んにやり、一代の豪奢を極めたものだが、男爵にもなれば巨産をも残して死んだ。死後、遺族は千万長者の華族様として安楽に暮している。この近藤が、また方位学の研究に甚だ熱心であった。
辰馬は、実に方位学から霊感を感じたのである。欧州大戦前にこれを予知して船を買い込んだり、傭船契約をしたのも、方位学のお陰であれば、大戦の末期に前途を予知して持ち船を処分したのも方位学の研究から割り出したものだ。住宅はもちろん、商談、掛け合、参詣の如きも、すべて方位学に照して取り極める。出入りの者も、この呼吸を呑み込んで、日時を計って面会する。使用人の採用も、またこの方法でやっている。だから、人間を採用した以上全幅の信任を置いて任せる。
辰馬ほどの金持ちになりたい人は、辰馬に倣ってよろしく方位学の勉強をすベきである。
辰馬は本年とって六十二歳、二十年来喘息病に冒されて静養している。中肉中背、品のよい色白の好紳士だ。船持ちなどは、皆な品が悪くて到底お座敷へは出せぬが、辰馬はさすがに洗練されたもので、ちょうど三井八郎右衛門を彷彿させるものがある。道楽は何もない。茶にも歌にも、はたまた書画骨董にも格別趣味を持たない。
かつて有名な某大富豪の所蔵品の入札がその大邸宅で催された際、辰馬もその下見に行ったが後で「何かよいお買物が出来ましたか」と尋ねた人に対し「私は入札よりはその邸宅なりその家の暮し向きが見たかったのだ」と答えた。すなわち、貧乏のため売立する原因を、常に豪華贅沢のためであったと評された某家の所蔵品なり暮し向きから、見出そうとしたのである、といったそうだ。
辰馬は、絶えず注意して公共事業に尽くしている。大正十年八月西宮市へ上水道敷設資金五十万円を寄付して同市多年の宿望を達成せしめ、大正九年三月資金百二十万円を出して辰馬学院をお越し、阪神沿線今津町で私立甲陽中学校を経営する事にした等である。
辰馬は、関係会社の重役会に出席しても、他の重役連は自家用自動車で乗り付ける中に、一人市街電車で停留所からは必ず歩いて行く。何時も安物下駄をはいて少しも辺幅を飾らない。最近に自分が重役をしている銀行の支店で、田舎から来た給仕の伯父さんじゃないかと、顔を知らない行員が思違いをしたような笑い話があった。
かつて辰馬が、知人に語った一節に「私は少しでも人のため世のためになることをしたい。祖先に対し申し訳の無い事をしでかしては相済まぬと、若い時からそれのみ心に掛け、今日においてもその観念は昔から変わらない。良い事をして祖先の霊を安んぜしめる。それは勤倹力行の四字あるのみである」と。自ら看板を掲げて勤倹の範を示し、なおこの主義の共鳴に値する有益な書物は絶えず種々取り寄せ、近親知己らに配布して読ませているとの事である。