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豊田佐吉(1)

 金のシャチホコで名高い名古屋は、その昔六十一万三千五百石の城下町、今は人口九十四万九千九百六十六人を擁する大都会だが、どういうものか、人物を生ずることが甚だ稀だ。せいぜいのところ、総理大臣になった加藤高明、文部大臣になった田中不二麿、博物学者の伊藤圭介、文学者の坪内雄蔵、それに猛獣狩の名人として世間にうたわれる殿様義親候くらいのものだ。財界の傑物に至っては、ひとしお寂莫を感ずる。
 今日、名古屋の千万長者で通っている者を拾いあげると、伊藤次郎左衛門、近藤友右衛門、瀧信四郎、後藤安太郎らだが、これらの人物も、中京においては大したものだけれども、日本的には如何のものか一寸首をかしげさせる。伊藤は昔からの富豪がそのままぬっと大きくなったもの、近藤は亡父の遺産を受け継いで欧州戦中に綿糸相携で一あたりしたというだけのこと、また瀧は元々旧家で、一時家運が傾きかけたのを挽回したというに過ぎず、後藤に至っては、株式の思惑で儲けたというのみで特にこれという程の経歴は誰にもない。この間にあって、豊田佐吉という一人物ーー町人か職人にありそうな平凡な名前の持ち主ーーただ独り嶄然異彩を放っているのである。
 豊田は、一文なしの素寒賛から、今や千五百万円の巨産を築きあげ、中京における富豪になったばかりでなく、豊田式織機の発明によって、日本の織物界にエポック・メーキングの一大革新を与えた。斯界における貢献はけだし偉大なものといわねばならない。
 豊田は、若い頃、叩き大工だったという噂だ。それは、第一、佐吉という名前が大工らしいのと、第二、木工機械に成功したのだから大工だったのだろうという想像、第三、豊田が初めて専売特許を出願したとき、無職とも書けないので大工職としたことがあった。それらから出た風説だろうが、実は大工ではなかった。静岡県浜名郡吉津村の百姓の子に生まれて、名古屋へ出るまでは、百姓をやっていた。
 口碑の伝えるところによると、吉津村の村人の租先は平家の落武者で、かつ一村挙げて法華宗の信者である。豊田の父も百姓に似合わず、燕趙悲歌の士であった。自然豊田も、父の気風を受けて、若い時から仲々の慷慨家、我が国土の狭溢を嘆いて、太平洋の真中に島を建設して領土拡張を図ろうなどという若い者にありがちな空想に耽ったこともあるが、これだけは豊田にもできず、可惜、発明的天才を抱きながら、悶々の情堪え難く、事毎に悲憤慷慨のうちに日を送っていたという。
 由来、天才と狂人は薄紙一枚の隔たりといわれている。当時の豊田の行動は、あるいは村人の心に狂人のように映じたかも知れない。
 そうこうしているうちに、明治二十年頃になって、特許条例が発布された。豊田は、手を打って喜んだ。何か機械の発明をして国家に貢献しなければならないと決心した。そして、織機の改造に着目した。吉津村は米を作る他に、木綿の手織機を副業としていたから、織機の改造を考えついたのである。
 それからというものは、自分自身で図を引いたり、木を削ったりして、一から十まで自分の手で織機の模型を作って見たり、毀して見たりしていろいろ苦心を重ねた。けれども、容易に思ったような物は出来なかった。その上、豊田の家にしたところで普通の百姓だから、永年の研究費を賄うだけの資力がない。両親のへそくり金はもちろん、親友知人にまで借り尽くしたが、どうしても物にならない。とうとう郷党からは狂人扱いされて、一人として相手になってくれる者がなくなった。
 村人には見放され、借金で首がまわらないようになった豊田は、苦難に逢う毎に勇気百倍し遂に郷里を去って、名古屋に出たのは、今からざっと三十五年前である。その後、豊田の苦心の効現われ、明治三十六年に豊田式織機を完成し、専売特許を得て、ここに初めて織機製造工場を起こし、漸次業務を拡張して、四十年にはこれを株式組織に改めたのである。