株式組織に改めると同時に沢山の重役が入ったが、豊田はこれらの人々と意見が合わず、業務不振に陥ったので会社から身を引いて欧州に遊んだ。その時、英国において紡績事業が盛んなのを見て、日本でもこの事業を拡張し、貿易の伸展を図らねばならないということを思いつき、帰朝後、大正二年頃と思うが、豊田紡織工場を創設した。間もなく欧州大戦の勃発にめぐり会い、莫大な利益を挙げ、大正七年に資本金八百万円の株式会社にして今では東海における有数の紡績工場となった。豊田は、最初発明した豊田式織機に満足せず、女工の賃金もいつかは欧米と同じ程度に騰貴するだろうという見込みをつけて、自動的に織機を運転する装置を考え資本金百万円の自動織機工場を設立した。旧豊田式織機は女工一人で二三台から七八台を動かすのが普通であったものを、自動織機は一人で五十台を動かし得るすこぶる能率的のものである。
豊田の発明的研究はこれだけではない。今度は動力の節約を考案し、目下着々研究中で、略々成功に近いものがある。未だ完成に至らぬうちに、不幸にして豊田は一昨々年脳溢血に罹かり、その後健康梢々快復したけれども、心身なお旧に復せず、病体を提げて研究に余念のない光景は、傍の見る日もいじらしい程だ。
豊田は、慶応三年の生まれだから、本年とって六十三才、身の丈五尺二寸、体量十三貫、どちらかといえば小作りの男で、書画骨董の趣味もなければ、碁将棋の道楽もない。品行方正で、ただ楽しみといえば発明と研究である。前章に述べた原田二郎は、寝ていて考えるのが楽しみだが、豊田は、何か難しい問題が起こると修善寺とか箱根とかの温泉場へ飄然と一人で行って、火鉢の側に端座して、煙草を燻らしながら沈思黙考、ために食事を忘れることも往々ある。そんな時、宿屋の女中がものを云っても返事をしない。「…あのお客様は気違いです」とやられたことも珍らしくないそうだ。
豊田は、自分の無学を承知している故か、公の席では決して喋らない。だが、家族や友人らの私席では大いに喋る。そして座談が上手だ。
豊田は、今日の名古屋における大成功者であり富豪である。重役になれとか、いろいろな会社から引っ張りに来る。また、商工会議所議員、貴族院議員とそれぞれ勧める者がある。が、彼れは虚栄が大嫌いで一意専心自分の業務に没頭している。だから、重役として名を出しているのは、豊田訪績株式会社(資本金八百万円)、菊井紡織株式会社(資本金六百万円)、豊田自動織機会社(資本金百万円)及び上海にある株式会社豊田紡織廠(資本金一千万円)だけである。何々会社の重役、何々委員、何々議員の幾十かを肩書きに織り込まなければ虚栄心が満足しない底の所謂大紳士とは、自ら豊田は人種が違うとでもいいたくなる。
豊田の持っている特許権は、日本で四十、欧米十三ヶ国で二十九、都合六十九ある。ざっと、生まれてから平均一年に一つ新工夫を編み出した勘定だ。藍綬章を賜り、勲三等に叙せられたのも故あるかなだ。
御所桜堀川夜討の段に、弁慶お浅出会の場がある。弁慶が播州書写山で、鬼若丸といった稚兒の頃、一夜お浅と契ったことがあった。僅か一夜の仮の契りでその時限り別れたお浅は、鬼若の胤を宿して一人の娘を生んだ。お浅は、貞婦両夫に見えずとあって、節操を守り一人暮しの寂しさに堪え忍んでいるうちにゆくりなくも、昔の愛人鬼若ーー今の弁慶に邂逅した。が、その喜びもほんの束の間、可愛いい一人娘の我子が忠義のために夫の手にかかって殺されるという場面は、お芝居で先刻御承知であろう。
お浅という名前は、貞婦につき物と見えて豊田佐吉の妻も名をお浅といって、排麗における芝居のお浅の如く豊田佐吉の良妻だ。
二人の間に一人の娘がある。昔のお浅の娘は、忠義のために身を捨てたが、御世泰平の有難さとでもいおうか、今から十五午前、この娘に利三郎という婿養子が出来て家庭はすこぶる円満だ。
利三郎は、東洋棉花の兒玉一造の弟で一橋出身だ。団琢磨の章で述べたことがあるが、技師と発明家は事業を殺すものだ。殊に、発明家で富豪になったものに至ってはほとんどないといってよいくらいだ。しかし、豊田一人は発明家であって、しかも晩年において富豪になったのだから、余程のエラ物には違いないが、女房お浅と養子利三郎の隠れた支授を見逃すことはできない。この点から、豊田は誠に幸せな男といってよい。
豊田の事業を助けた人が、もう一人他にある。藤野亀之助といって、三井物産会社の大阪支店長で死んだが、この藤野が、名古屋に豊田という発明家がいることを知って一つ男にしてやろうと、大いに力を入れてやったものだ。時恰も、英国の木綿が盛に満洲に輸入されていたので、これを駆逐するには、まずその設備がなくてはならない。そこで、豊田に織機の製造を勧めたので、豊田もその気になって機械を作り、その製品たる木綿織が満洲において英国品と競争し、遂に競争に打ち勝ったので、英国品の販路を奪い、豊田は非常な儲けをしたという。これが、豊田の資産を作った濫觴である。