ページ

小山健三(1)

 武蔵の国忍藩(行田町ともいう)は、二つの人物を生んだ。一人は松平忠行といって、藩主の弟君、光源氏か業平朝臣の再来かと思われるほどの美少年、明治十八九年の頃、慶応義塾に学んだことがあったが、三田山上を逍遥するその楚々たる容姿は、薩摩隼人の眼を奪い足を奪い、思わず「チェスト」を叫ばしめたものだ。加うるに忠行は才智人に勝り勝来の大成を嘱目されていたのに、惜しいかな米国留学中彼の地で黄泉の客となった。
 今一人は、容貌骨格風彩の何れの点も忠行とはまるで反対、武勇伝にでも出て来そうな人物で、身の丈五尺八寸、体重十九頁、白銀の如き長髭を蓄え、禿頭赤顔そぞろに鍾馗を彷彿させる小山健三その人である。
 「大阪財界の輸入人物」は随分数が多い。全権公使から鴻池家に入った島村久、管船局長から大阪商船社長になった中橋徳五郎、日本銀行大阪支店長を辞して後に阪神電鉄大阪ガスの主権者となった片岡直輝、逓信省から住友家に入って総理事になった湯川寛吉、鉄道省作業局長から今は京阪電鉄の社長に収まっている太田光凞、台湾民政長官から大阪朝日の幹部になった下村宏、三井銀行員から北浜銀行頭取になった岩下清周、文部次官から大阪電灯の重役になった田所美治、等々。就中、文部次官から大阪銀行界の大立物となった小山健三は、これらの人々の中で嶄然一頭地を抜いている。
 時勢の変化は面白いものだ。今日でこそ、紡績屋も、電気屋も、銀行家と肩を並べて実業家と尊称されているが、二三十年前までは左様ではなかった。所謂事業屋は、銀行家の前に全然頭が上らなかった。その当時以来、銀行家の牛耳を握ったものは、東に渋沢栄一、西に小山健三があり、東西における金融界の両大御所として人も許し自らも許し、時の政府が公債を募集するとか、金融界の大問題を解決するとかいうような場合には、大蔵大臣は必ずこの両大御所の意見を徴するのが例だった。
 かかる際にも、両人の性格の相違はハッキり現われている。渋沢は、例の迎合主義から多少臓に落ちぬことがあっても「閣下の御意見は至極御もっとも」と、言下に太鼓を叩くが、小山は、たとえ時の政府に都合の悪いことがあっても、国家のため、正義のためには、堂々と所信を強硬に主張して、決して一歩もまげなかった。
 渋沢のテーブル・スピーチは、既に定評があるが、小山もこの点では人後に落ちなかった。ただ、渋沢と違う点は、渋沢がお世辞たっぷりの愛嬌を振りまくのにひきかえ、小山は無遠慮な皮肉を飛ばす事が多かった。銀行の大会が大阪で開かれ、大蔵大臣、日本銀行総裁が出席するその時における小山のテーブルスピーチは、ユーモアとウィットに富み、しかも寸鉄肺腑をつくかのような警句で、一座をあっと言わせたことも度々であった。
 渋沢は、品行の点ではどちらかというとあまり感心しない方だ。妾も置けば芸者も買った。これに反して小山は品行は極めて方正で、一度も浮いた噂を聞いたことがない。また、渋沢は、第一銀行を始め何十会社に関係し、法性寺の入道宜しくという肩書きを持っていたが、小山は徹頭徹尾一人一業主義を厳守して、三十四銀行頭取である他、絶対に他の会社に関係しなかった。
 だから、渋沢は株式で儲けたり損をしたりして、今日ではその資産千万円以上といわれて、日本における金持ちの部に入っているが、小山は寡欲恬淡、株式の思惑などやったことがなく、今日の遺産は子孫が食うに差し支えないというだけの貧弱なものだ。
 以上を要するに、渋沢は子爵勲一等、小山は貴族院議員勲二等で、俗界における小山の地位は、到底渋沢に及ばない。けれども、人格の点では小山は渋沢に優るといってよかろう。