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小山健三(2)

 小山の青年時代はよく知らないが、たしか明治二十五年頃、時の文部大臣河野敏鎌の秘書官になったのが中央政府の役人の振り出しだ。それから二十八年に高商校長兼参事官になり、三十一年に文部次官になった。
 その翌三十二年頃、大阪の日本中立と共同の両銀行の合併があり、その時かつて文部大臣秘書官だった片岡直輝が、同僚の関係から小山を迎えて三十四銀行頭取にしたのである。小山は、安政五年(六月十三日)生れだから、四十二で民間に下ったわけだ。
 以来、小山は、大正十二年(十二月十九日)六十六歳を一期として没するまで、二十四年間、三十四銀行のために身命を捧げて努力奮闘したのである。
 小山の頭取は、世間並の盲ら判を押す頭取ではなかった。名は頭取だが、実は頭取兼常務取締役兼支配人兼書記で、行員と同時に出勤し、伝票にはことごく目を通し、僅々百円の手形でも、小山の判がなければ割引出来なかった。加うるに、その経営方針は、飽くまで着実穏健で、欧州戦乱中世間一般が好況熱に浮かれまわっている中も一向それに雷同せず、ために一部の者から馬鹿者視されたものである。しかしどうだ、戦後の恐慌で、商工業者は相ついでバタバタ参ってしまったが、三十四と取引して平素堅実な営業方針を続けていた者には、どしどし資金を供給したから、没落の悲運にも陥らず、三十四を神の如く尊敬したものだ。
 小山は常にこういっていた。「銀行は、単に利子を貪るのが本能ではない。よく事業の性質を調査し、見込みのある堅実な商工業者に対しては、景気不景気に拘らず、分に応じて資金を供給し、殊に小商工業者を保護する義務がある」云々。
 こういう意気を以て、銀行経営に当たったものだから、自ら他と異彩を放った次第だが、小山の銀行政策中特筆すべきは、投機資金の貸し出しを絶対に排したことである。だから、例の借金王石井定七事件には、大阪の各銀行とも、大なり小なり軒並に引かかったが、独り三十四だけは、この災厄に遇わなかったのである。
 小山の三十四銀行に対する功績は、数え上げると際限がないが、左の数字が、最も雄弁に物語ろう。
 すなわち、小山の入った明治三十四年の三十四銀行は

資本金 4,700,000
預 金 5,111,000
貸 出 4,915,000
積立金 50,000
配当率 年8%

であったものが、小山が没した大正十二年には、次のように変わっている。

資本金 50,000,000
預 金 231,000,000
貸 出 181,000,000
積立金 17,000,000
配当率 年12%

小山が、大阪銀行界における大立物となり、時の政府をして一敵国の如き観あらしめるに至った理由は、小山の銀行経営宜しきを得たのと、謹厳そのものの如き彼の態度と人格にもよるが、他にも素因がある。他でもない、記者操縦の腕の冴えだ。
 今は昔、日本郵船会社の全盛時代、天下の人材は郵船に集まったといわれたものだ。ところが実は、郵船の連中ときたら、どれもこれも鈍物ぞろいで、ろくな人間はいなかったのだが、それでいて一廉の人材視されたのは、お茶屋遊びで芸者やおかみを利用したからだ。社長近藤、副社長加藤を首め、重役から主なる社員に至るまで、郵船の連中はお茶屋遊びが好きだった。当時の大官伊藤、井上らがまたお茶屋遊びが好きだったから、自然同気相求め、それに芸者やおかみの宣伝が手伝ったので、郵船の鈍物も一廉の人物らしく光ったのだ。しかし、時勢の進歩とでもいうか、人物の批判宣伝は、芸者やおかみという特殊階級から、民衆に解放されることになったので、最早やお茶屋遊びでは大人物になれなくなり、次第に新聞雑誌と「ゴロ」を操縦することによって偉人の名を博す時代になったのだ。この呼吸を甘く呑み込んで、まんまと成功した者に、和田豊治早川千吉郎の徒がある。小山もまた、このこつを充分知っていた。けれども、小山が三十四から受ける報酬は僅かのもので、到底和田や早川の御大尽のように金をばらまくことは出来なかったが、それで以て新聞雑誌の連中に小山を謳歌せしめ、世間から偉人扱いさせたのだから、そこに彼の利巧さがある。