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鬼頭幸七(3)

 人には、無くて七癖というが、鬼頭は何か考え事があると首を振る癖がある。東京の先代渡邊治右衛門は、考え事のある時は便所へ入ったそうだ。便所は暗くて静かだからよい分別も出ようが、首を振ってよい考えが浮び出る鬼頭の頭は、生理学上一覆特別の異なった構造かも知れない。一つ大いに研究して博士にでもなろうという者はないか。
 鬼頭は、甚だ用心深い男で、万一ということを常に懸念して何でも予備を置く。これを鬼頭の二重政策という。すなわち、松坂屋には、エレベーター、電灯等の設備に対して、すべて予備を置くのみならず、商品金融等にも平素から二重の備えがあるから、大正十二年の関東大震災の際にも少しも驚かず、松坂屋は他に卒先して営業を開始した。鬼頭を中心によく働く訓練された七千の使用人を擁する松坂屋は、この調子だと十年後には、三越を凌駕するのみならず、世界的なデバートメント・ストアになり得るだろう。
 店主次郎左衛門は、鬼頭に全幅の信任を置き、鬼頭の進言は一として用いないことがない。鬼頭もまた主人を尊敬すること神の如く、君臣の和、主従の情、誠にうるわしいものがある。かねて次郎左衛門は、鬼頭の功に報いるに、新しい家を建ててやろうといった事があるが、鬼頭はこれを謝辞して、今でも養父伝来のみずほらしい家に住んで満足している。これには次郎左衛門の方で、閉口しているようだ。
 上来、私は、鬼頭の手腕人格について徹頭徹尾褒め通して、間然するところのないまでに褒めちぎった。彼の人となりを知らぬ者は、仏の再来かと思うかも知れないほどだ。終わりに臨んで、この仏様に少しく苦言を呈したい。
 伊藤家は、有名な仏教信者だ。鬼頭も同じくお宗旨の大の帰依者であって、毎朝起きると、必ず三十分間木魚を叩いて読経するとのことだ。よい心掛けである。されば、ひっきょう松坂屋の繁盛は.阿弥陀様の御利益であるから、松坂屋及び鬼頭は、仏に対して最上の敬意を払わねばならない。それだのに、この頃の松坂屋は、ある意味において、仏を弄ぶかの振る舞いがあるのは受け取れぬ話ではないか。この程名古屋の松坂屋老屋上に、浅草観世音の分身を安置し、浅草寺にある有名な額や絵巻物を一般の縦覧に供したのは何としたことだ。観音様を百貨店の隅に飾り立てて、見世物扱いするのは勿体ない極みである。そのために、浅草寺も多少の収入があり、松坂屋もまた千客万来で、商品の売れ行きが増えたかも知れないが、観音様を商売の出汁に使って金儲けをするなどとは、如何に商人とはいえ、あまりに物欲にとらわれ過ぎた行為ではなかろうか。

誰道仏恩能済人
人間済仏亦縁因
光明赫灼金円徳
購得観音堕落身

これは、福沢翁が、当時における僧侶の堕落を嘲った詩であるが、浅草寺の坊主の堕落は余儀ないこととするも、名古屋の名家たる伊藤、熱心なる仏教信者の鬼頭にして、仏罰の恐ろしいことを知らぬ筈はあるまい。私が観音信者であるだけに、人一倍遺憾に思う次第である。