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序論(1)

 人物評というものは、なかなか難しいものだ。桃介とても、透視術を知っているでもなし、千里眼でもないので、ある人物をとらえて、浄瑠璃の鏡にはっきり写し出すことは難事中の難事だ。マアある程度までは想像で行くほかない。その想像もこちらが玲瓏玉のように、一点の曇りもない明鏡のような人間ならともかく、夫子自身多分に濁っているのだから純真な訳に行かない。人間の濁不濁は、要するに程度の問題。これ評し合えば、形影のピタリと行かないのがお互いの相だ。
 私もこれまで大勢の人間と交際し接触して来たが、これぞという完全な人間に出会ったことがない。釈迦耶蘇の如き、老子孔子の如き、そういう人の伝記を今見ると、非常に感心することが多いが、またあれだけの人にも、私などの気に入らないところもある。かかる大聖人において然り、いわんやとうとうたる天下の俗物においてをやだ。人間には、誰にでも美点もあれば欠点もある。これを差し引きすると何が残るか、残るところはゼロかも知れない。例えば、非常に利口でも臆病であるとか、正直だが馬鹿だとか、人に会って大変お世辞はいいが仕事を見ればカラ駄目だとか、仕事は大層うまくやれるが交際が下手だとかいうように、差し引きすると英雄も小人もほとんど同じようなものになってしまう。
 実例を挙げると、犬養毅という人は、字も能く書くし学問もある。演説も上手だ。上手なばかりでなく、この事はこういうように言ったらよかろう、こういう時には長話しちゃ悪かろう、というようなことにかけては目先の見える人で、婚礼の席などで「犬養君立って話してくれ」という場合、馬鹿な奴がその前に長話をしたりすると、チョイと手短かに要領のよいことを言う。 そういう目先が利くことにおいては、日本にあれ位の人はいないだろう。ところが、その人が、いまだに総理大臣になれない。政治家としては、総理大臣になるのが最上であるはずなのが、それになれない。なぜかというと、他に欠点があるからだ。だから利口なら必ずえらくなるとは限らず、また、馬鹿だから世の中に立てないという訳もない。
 松方正義という人が総理大臣になった時に、少し用語は違っているかも知れないが、何新聞だったかそれもハッキリ覚えてないけれども、こう批評したことがある。「天下至愚の人にして、人臣至高の位に就く」 と。松方は、明治天皇から子供が何人あるかと御下問のあった時、いずれ帰宅して取り調べた上御奉答申し上げます、と御答したほど頭の回転が悪い方だ。それでも、人臣の至高の位に就けたのだから、単に結果だけを見て議論しても駄目だ。総理大臣になった人を馬鹿だと言ったら、随分妙に聞こえもする。どうもそこが、人物評なるものの非常に難しいところだ。
 それにまた、桃介の性格で好き嫌いがあり、批評すれば間違ったことが多いだろうが、およそ世の中のことで間違わないものがあろうか、恐らくはないだろう。例えば、ダイヤモンド社で数字を発表する。これは間違わないと思っているのであるが、数字それ自身が間違っている。二と二を足せば四になるというけれども、これがそもそも間違いだ。何となれば、 哲学や宗教を借りなくても、物理学から論じて見てもよろしい。二本の筋を並行に引っ張るとする。終極はどうなるか、 並行の二本の筋は、結局一つになる。すなわち我々の想像したものと違うことになる。そうすると、二と二で四になるということの究極が分からない。人間万事嘘半分本当半分、もしくは三割嘘七割本当という程度のところか…。新聞の報道、雑誌の記事、これが全然本当だったらつまらない。嘘が入るから面白いのだ。
 猿飛佐助という忍術使いがある。その伝記を見ると、ほとんど嘘だが、読む人は本当だと思って読む。それで面白い。 私が批評しても、当たっていないかも知れないが、小説を読むか、猿飛佐助の伝記でも楽しむつもりで読んでもらいたい。
 そこで、ダイヤモンド社の注文だから、私は実業界の人々を批評して見たいと思う。吉田松蔭とか、小松帯刀とか、西郷、大久保というたぐいの所謂御維新当時の古い人は、私は会ったこともないから勿論だが、私の知っている伊藤博文、山縣有朋、大隈重信等の政治家も別として、実業界では、いわく岩崎弥太郎、渋沢栄一(澁澤榮一)、川田小一郎、安田善次郎などという人、教育界では中村敬宇、福沢諭吉、新島襄、加藤弘之、芸術界では団十郎、摂津大掾(竹本摂津大掾)、林中、相撲取では陣幕、梅ヶ谷、常陸山というように、御維新からかけて随分あらゆる方面に英地豪傑の士が輩出した。