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岩崎弥太郎(1)

 さて本論に入っ て、財界における英雄豪傑を一々月旦しよう。
 前にも述べた通り、誰が一番偉いということはいい難い。が、私は、岩崎弥太郎こそ財界において最も傑出した英雄であると思う。
 弥太郎は、あらためていうまでもなく、今日三井と並び称される世界的富豪三菱の鼻組、三十七歳で実業に身を投じ、五十二歳で比較的早死にしたから、彼が本当に働いたのは僅に十五年。かくの如き短時日の間に、彼ほど多くの仕事をした者もなく、また彼ほど大きい富を作った者もいない。
 岩崎は土佐の人、生家は土地の豪士だ。十九歳の頃江戸に出て、駿河台下にあった当時の碩学安積艮斎の漢学塾に遊んだ。学成って土佐に帰り、一時藩の役人となり、その後藩から藩の経営にかかる貿易船舶等の事業の管理を嘱託された。この事業は、廃藩置県によって自然岩崎が払い下げを受けることとなった。
 明治三年の秋、土佐開成商社を起こし、岩崎が社長、石川七財川田小一郎が管事となって、この三人で商売を始めた。 のち開成商社は、九十九商会と改称されたが、当時岩崎は三十七歳、石川は四十三歳、川田は三十三歳であった。岩崎は眼光爛々として人を射り、石川は五尺八寸の長体で右頬に三寸の刃痕があり、川田は肥満相撲取りのようで、一見三国志の玄徳関羽張飛を彷彿させ、何れも物騒な人相の寄り集まりであったという。
 明治五年、九十九商会を三川商会と改め、翌六年三月、岩崎の紋所三階菱を崩して菱形三つをとって商標とし、三菱商会と号した。明治七、八、九、十の四ヶ年は、三菱にとって最も大事な時であり、かつその基礎を作った。
 三菱は商売の手始めに、五六艘の船を持って海運業をやった。話は少し横道に入るが、時の全権大久保利通の配下に、「リセンドル」というアメリカ人がいた。この男は、アモイ駐在米国総領事を務めていたのだが、米国政府の許可を得て領事をやめ、日本政府に雇われた。明治七年、台湾征伐の時は西郷従道の道案内をして台湾に渡り、また大久保利通がこの戦の後始末に北京へ談判に行った時は大久保の顧問として同行するなど大いに日本政府のために尽くしたものだ。この「リセンドル」が、「日本は四面を環らすと海を以てする国であるから、海軍の充実と、多くの船舶を所有することが必要だ」ということを大久保に説いた。
 大久保は、すっかり彼の話に共鳴し、財政が許す限り船を買い入れて、その運用を三菱に委託し、後に相当価格でこれを三菱に払い下げた。こうして、三菱の持ち船は追々増え、明治八年には横浜から上海に至る航路に要する船舶五隻と、支店倉庫とを太平洋汽船会社から買い受け、社名を郵便汽船三菱会社と改めた。ここにおいて始めて、三菱は日本における船舶王の形になったのである。そうこうするうちに明治十年、西南戦争が起こり、三菱は軍需品その他の輸送で船舶の需要が急激に増え大儲けした。そのため社運益々隆盛となり、所有船舶の総数は四十隻もの多きに及んだのである。
 けれども、中には随分老朽使用に堪えないものもあって、これの処分は、大いに岩崎を悩ました。しかし、天祐というか、この大難関が容易にスラスラと解決する気運が来た。それは共同運輸会社の出現である。
 三菱が西南の役で大儲けしたとはいえ、政府から払い下げを受けた船はどれもこれも老朽のボロ船で、いわば体よく押し付けられた形であった。井上馨一派はこの事情を承知せず、三菱の暴富は、これ一に大久保が政府所有の船舶を三菱に安く払い下げ、かつ上海航路に毎年多額の補助金を与えているからだ、と内心甚だ面白からぬ体であった。そして、事あらば鬱憤を晴らそうと構えていたが、何しろ政府部門における大久保の勢力が盛んで、どうすることも出来なかった。
 ところが明治十一年、大久保が紀尾井坂の凶刃に倒れてから、追々慷慨の気を漏らすようになり、渋沢、釜田らをけしかけ、品川弥二郎らと連絡をとって、明治十五年に共同運輸株式会社を組織して三菱に対抗することになった。この競争会社が、のち双方合併して出来たのが今日の日本郵船株式会社である。