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岩崎弥太郎(2)

 岩崎は、 五十一歳から病床に臥し、五十二歳を一期として死んだ。明治十八年の春と記憶する。合併の相談は、岩崎の死前だったが、成立したのは死後である。当時、日本郵船の資本金は一千百万円で、中六百万円は共同、五百万円は三菱に分けられ、他に三菱は社債五十万円を受け取った。
 三菱が世間を驚かすほどの、そして何人も手が出せない大金を出して買った大きな買い物が三つある。一は前述の上海航路八十四万ドル、二は明治十四年百二十万円を投じた高島炭鉱の買収、三は明治二十二年に丸の内の地所を百二十万円で買った。しかもこれらの買い物は、進んで買ったのではない。余儀なく買わされたものだ。その結果、三菱の富の大部分をなすに至ったとは、何が幸いするか分からない。畢竟、陰徳に陽報あり、押し付けられたものに旨いものの汁の種があるというよい実例である。
 後藤象二郎(後藤象次郎)は、倜儻磊落(てきとうらいらく)土佐の生んだ大政治家だ。彼は、薩長連合で天下を取ったものの、早晩軋轢を生ずべく、その時こそ天下は土佐に帰するであろうという予想から、その準備として軍用金の必用を感じ、政府から高島炭鉱の払い下げを受けて経営を始めた。払い下げ価格は五十万円で、内二十万円は即金、残金三十万円は年賦という条件であったが、当時後藤は、払い下げ金に不足を来たしたので、石炭の一手販売権を担保に英一番ジャーディン・マセソンから借金した。そして、ともかく商売を始めたけれども、御大の後藤の配下には竹内綱大江卓山東直砥らの豪傑がいて、この連中が商売をするのだから、いわゆる士族の商法で旨く行く筈がない。遂に後藤はほとんど破産の窮状に陥った。福沢諭吉は、後藤と親交があった。後藤が苦境にあるのを知って、維新の大業に参興した英雄を見殺しにするのは忍びず、ひそかに高島炭鉱を三菱に買わすべく、熱心に岩崎を説いたものだ。
 今でこそ、百二十万円位何でもない。が、当時は大金だ。用心深い岩崎はこの大金を出すのについてよほど躊躇したようだ。けれども、同郷の先輩のためでもあり、仲人が福沢だったのでかたがた渋々手打ちをしたのである。
 高島炭鉱は、日産千トンからの良質の石炭を産出した。かつ機械設備万端立派なものだった。川田小一郎などは、垂涎措く能わず是非買いたいと勧めたが、岩時はロでこそ百二十万円は訳ないけれども、百二十万だけ薪を買って積んでみろ、どんなに大きいか貴様には判かるまい、といったとの話だ。一円札で百二十万円だけ並べて見ろといわずに、薪を買って積んでみろといったのは、どういう意味か筆者には判らない。あるいは虚構の誰かの説かも知れない。思うに、石炭山を買うのだから、薪にたとえたのかも知れない。
 それから丸の内の地所、これは弥太郎後すなわち弥之助時代に買ったものだ。明治二十二年、三菱家の重積荘田平五郎が、英国に遊んでグラスゴーにいた時、末延道成が郵船会社の用務を帯びて英国へ渡り、偶然グラスゴーで荘田に行きあたった。荘田は日本からの新聞を末延に示し、丸の内にある陸軍省の土地が売り物に出たが、あまりに金額が大きいので誰も手を出す者がないという。だが、将来東京の中心になるのは丸の内だから、国家のためにも、三菱家のためにも、これを買って大建築をしたいものだ。そうだそうだとあって、両人相談の結果を、弥之助宛に電報した。
 弥之助を始め、東京にいる三菱の幹部連中は、陸軍省から是非買ってくれと責められ、中にはまた買いたい気持ちの人もあった。けれども、何分百二十万円という大金は、おいそれと出せるものではない。はるかに草茫々の当時の丸の内一帯を眺めて思案に暮れていた時、折よく荘田からの電報が来た。そこで、遂に意を決して、丸の内の地所に神田三時町の地所一万坪を加え、総計約十万坪を百二十万円で買ったのである。すなわち、坪あたり十二円につく。当時としては、よい値段だったが、荘田等の先見の明は違わず、後に東京駅が出来、三菱で大建築をして、今日では帝都の中心となり、お濠の水を挟んで皇居と相対し、世界に偉観を示すに至ったのは、決心の極みではないか。