山下はウィットに富み、応接談話で人をチャームするのが上手だから、商売の掛け引きもさぞかし機敏だろうと想像されるが、実は極めて鈍な男だ。察するに、これは彼が庄屋の息子に生れたためだろうが、日露戦後、小樽木材株売り抜けの機を失して持ち腐れとなり、また欧州戦後、持ち船を処分して還金するという早業もやらず、反対に沢山の土地を買い込む如きはどう贔負目に見ても、商売上手とはいえない。ただ、彼が成金時代に他の小成金がやったように商事会社を起こさなかった点は、己れを知る明ありと褒めておく。
山下は日露戦後、他人と手形の交換をしたことがある。そのため、自分もその人も酷い目に逢った苦い経験を嘗めている。それ以来山下はこれに懲りて、他人の手形に裏害もしなければ、自分も他人に裏書をさせないことを憲法にしている。だから、川崎造船所、鈴木商店没落の際、平素山下は松方、金子と別懇の間柄だったので、山下は必ず手形関係があるだろうと世間では見られていたが、実際は少しもそのような関係はなく、多くの銀行家たちを驚かせたという。
山下は茶事を解しない。また、解するほどの風流人でもない。自分が主人になって、茶会を催した話も聞かない。けれども、茶席料理が甘いのと話が面白いとかで、お茶に招かれるとかかさず出席する。出席はするが、時間を空費するのが嫌いなので、懐石が済み中立になると、少々腹痛を催しましたからこれで御免蒙るといってサッサと引き揚げる。これが度重なるものだから、自然茶人仲間で評判となり、中座することを「亀さんの腹痛」と呼ぶようになった。
今は昔、萩に猪の花札を朝吹さんといったことがある。朝吹英二の顔が萩の花にそっくりだったからだ。朝吹は斯道の達人だったから、この尊称を受ける資格は充分あったが、茶人ではない山下において、この代名詞が出来たのは名程の至りとすべきである。
欧州戦争の大景気の最中、竹内栖鳳の雷が大いに流行して、一寸したものでも何千円で羽が生えて飛ぶという有り様だった。それでも、本人の栖鳳は、人に頼まれても仲々おいそれとは描かなかった。奇智に富んだ山下は、よし俺が一番描かせてやろう、と自ら栖鳳を訪問した。そして、恭々しく両手をついて、実は私に一人の老母がある、最早余命幾何もない、ついては屏風に先生識画を描いて頂き、これを枕頭に飾って老母を慰めようと思う、と熱意を面に現わして口説いた。栖鳳はすっかり山下の孝心に感激して早速描いて寄越した。のち大正十四年、山下家所蔵の愛品売立の際、これを五万円で売って山下が大儲けをしたか、それとも今なお山下家に珍蔵されているか、聞き漏らしたのは遺憾である。
顧れば、彼山下は、そもそも伊予の分限若の家に生まれたとはいえ、再三没落の悲運に陥りついに泥亀とまで世人から排斥されたものが、今日押しも押されもせぬ世界の船舶王になった。彼もまた一代の好運児といってよかろう。けだし、山下の名前が亀三郎で、夫人がお鶴、鶴と亀との日出度づくし、家庭の平和もさりながら、今日この繁栄を見るのは必ずしも偶然ではないようだ。
さて、これまで月旦した人物は、荘田平五郎、安田善次郎、益田孝のような私の先輩もあれば、辰馬吉左衛門、鬼頭幸七のような未知の人もある。また各務鎌吉は私の親友であり、山下に至っては三十来の知己である。かつ私は山下に先んじて名を成した故か、山下は私の弟分のような気がする。各務は既に世界最大の海上保険会社を捏ち上げ、山下は世界の船舶王になった。このような私の親友及び弟分が、世界的大人物になったことは、私の窃に誇りとするところである。
我が財界には、なお批判すべき幾多の人物がある。渋沢栄一、大倉喜八郎、古河市兵衛、森村市左衛門、若尾逸平、雨宮敬次郎、岩崎弥之助、山本達雄、高橋是清、馬越恭平、中上川彦次郎、豊川良平、吉川泰次郎、近藤廉平、日比谷平左衛門、和田豊治、平沼専蔵等また関西方面では松本重太郎、田中市兵衛、土井通夫、寺田甚興茂、武藤山治、松方幸次郎、阿部彦太郎、大塚麿等、また九州には安川敬一郎、貝島太助があり、北海道には相馬哲平、板谷宮吉があり、越後には中野貫一、山口權三郎があり、仙高には齋藤善右衛門があり、桑名には諸戸清六がある。これらの人々及びその他の人々も折を見て、ぼつぼつ雑筆にしたいと思う。ただ遺憾に思うのは、私の親友岩崎久弥、川崎八右衛門の両人を月旦し得ないことだ。この両人は神仏に如何なる誓いを立てたものか.世間からなるべく忘れられようと努めている。だから、もし私がこの両人を褒めて書けば、絶交状をつきつけられようし、さりとて悪く書くには種がない。誠に困ったものである。