由来、実業家に婦人道徳は不向きと相場が定まっている。君子人を以て目せられた荘田平五郎でさえ清浄無垢の人ではなかったようだ。しかし、金子はオギャーと生まれて六十三歳の今日に至るまで、女房の他に道楽の味を知らぬという聖人である。
英雄すでに不出世、聖人に至ってはなお然り。いわんや英雄にして同時に聖人たる金子の如きに至っては、幾百幾千年の間に二人を求めることは無理であろう。
以上を前置きとして、そろそろ金子を批判して見よう。
金子は、慶応三年六月十三日、土佐の吾川郡名野川村に生まれた。五、六歳の頃、父が高知に移り住むことになり、金子も伴われて高知の人となった。長ずるに及んで、近所の質屋に丁稚奉公にやられた。偶然ではあったろうが、金子の商売のアウトラインは、実にこの質屋奉公中に会得したものだ。
質屋稼業は、仲々頭の働きを要する。質を取る瞬間に、この品物は自分のものであるか、借りて来たものであるか、あるいは盗品ではないかという点を注意し、それからこの品物にいくら貸してよいか、流れた時はどうしたらよいかというようなことを胸算用で直ちに計算しなければならない。しかし、鋭敏な頭脳の持ち主金子は、日ならずしてこの道を覚え、質を置きに来る人の品物の出し振りで、質屋通いは始めての人か、または二度も三度も度々質入れする人であるかを容易に判断できるようになった。後年金子の直話によると、職人とか月給取りが質屋通いをしても、そのために身を誤るようなことはないが、小間物屋とか魚屋とか八百屋とか小商売をする者が質を置くようになったら、おそくも三年を待たずしてその家は潰れるそうだ。その真理を、金子は幼少の頃すでに体験しながら、後年鈴木商店経営に当たって、大借金をして主家を潰したのは、酒呑みが酒の害をしりつつ、つい深呑みして健康を害し、一命を棄てるに至ると何等選ぶ所がない。
金子の教育程度は、お話にならぬほんの寺子屋式の教養を受けただけだが、根気がある彼は、質屋奉公中質物の書籍を片っ端から盗み読みして独学勉強したものだという。殊に孫子を好み、熟読吟味、よくその大体に通じ、これを後年商売上に応用して大いに儲け、また蘇張の弁を揮って人を説破するなど、徐々に成功の素因を作ったものだ。
しかしながら、洋食の料理は菜切包丁では駄目だ。やはりナイフでなければならぬ道理だ。それと同じく、今日の事業商売は、およそ西洋流の組織だった経営法によらなければ旨く行かない。そこを金子が、孫子の兵法で万事を押し通そうとしたのが、そもそも手違いのもとになったのだ。
それは後の話で、金子はそうして質屋奉公をしていたものの、田舎にいては出世ができぬと考えて、二十か二十一の頃、神戸の砂糖商鈴木岩次郎の店へ入って番頭になった。その後、明治二十六年、金子が二十七の時、主人岩次郎が死んだので、後家のおよねさんを主人として相番頭の柳田富士松と鈴木商店経営の任に当たった。当時、鈴木の財産は、約九万円位だったというから、岩崎(弥太郎)の死んだ時の二千万円とは、てんで比べものにならない貧弱さであった。
主人岩次郎が死にそうこうしているうちに日清戦事が始まり、これも済んで明治二十九年に台湾が我が領土になって、日本の兵隊が基隆(キールン)に上陸したという電報がロンドンに入った当時のこと、英国人「ノース」という海軍士官の古手の大相場師が樟脳の大買い占めをやったために、百斤四十円くらいのものが結局は九十五円くらいになった。その頃鈴木商店は砂糖と樟脳の商売をしており、砂糖の方は柳田、樟脳の方は金子が担当していた。