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佐々木勇之助(2)

 佐々木は江戸の生まれ、ただの素町人ではない。れっきとした旗本の家来である。最初、寺小屋式の教育を受け、後に築地の海軍所に入り、将来海軍士官になる志望であった。ところがそこで数学を勉強しそれに上達したのが縁で、幸か不幸か明治四年佐々木十八歳の時、三井組小野組の経営にかかる為替方に奉公することになった。その後、三井小野は政府の勧説により、明治五年六月、国立銀行条例の公布に先立ち、国立銀行創立の願書を大蔵省に提出し、翌六年六月、第一国立銀行と銘打って、イの一番に「銀行」の名乗りをあげた。資本金は三百万円で、三井八郎右衛門小野善助三井三郎助小野善右衛門三野村利左衛門(当時の三井の大番頭)が発起人、その連名で「第一国立銀行株主募集布告」を、広く世間に頒布して株主を募った。今から見ると随分奇抜なものだ。面白いところを一寸抜粋して見よう。

それ銀行は、なお洪河の如し。その効用得て際限すべからず。しからども、その資金の未だ銀行ヘ集合せざるや、ただに溪谷点滴の水に異ならず。あるいは巨商豪農の窖中に埋蔵し、あるいは傭夫老媼の襟に潜伏し、利人富国の能力を有するも寂としてその功験あるを見ず(中略)然り而して、一度銀行を創立し、その制宜しきに適し、能くその疎通の要路を開折せば、かの窖中襟にあるものことごとく迸出し、相集りて至大至洪の資金となり、(中略)そして周囲の景状これがためにその観を改め以て人智を開き国益を増し、生民日用行事の間須臾も欠くべからざるの要具というべし。これなお溪谷点滴の一枯魚を助け一の木片を浮ぶる能わざるも、その湊合に至りては能く億万の大船を浮べて重しとせず、万里運輸の便益を起し、天地の間においてまた一日も欠くべからざるものの如し。云々。

以上は、今日のいわゆる創立趣意書だが、銀行の講義をしながら効能書を並べて株主を募ろうというのだから、仲々楽でなかったことと想像される。字句の如きも、今日から見ると難しい漢学丸出しだが、筋の通った名文だ。
 それから、株主になることを入社と称し、手続について二十ヶ条を取り定めた。その第八条にまた変わった文句がある。

銀行の政事は株主より発言(株主より一株に付き一説を出し到底は数の多きに従って可否を決するなり)して選挙された五名の取締役の任にあるべし。云々。

今日「業務」というところを「政事」と言い、株主権は一株につき一箇という代わりに一説といったところなど味がある。また、株式申込証を株敷願書と言った。序に、そのひな形をお目に掛けよう。

   株敷願書
 今般御発起の銀行株敷幾許買請申度則ち右内金として御条例通り一様に付き十円の割合を以て合金高何百円差出申候
前書株敷買請侯上は銀行の御規則堅く相守申候也
  年月日
買主 何 某
証人 何 某
東京第一国立銀行義起人
   何某殿

資本金は三百万円で、内二百万円は三井小野両組で引受け、残余の百万円を広く世間に募集した。ところが、当時の百万円は今の一億円にも相当する大金ではあり、民衆がまだ銀行の性質を理解しなかったので、株式の申し込みは予想外に少なく、遂に発起人の引受高と一般応募とを合わせて二百四十四万円という端教の資本金での創立の止むなきに至った。渋沢栄一が総監で、佐々木は三井小野の手代だった関係から、第一創立と同時に自然佐々木もそのところへ転じた。そして明治十五年だったと思うが、三井から入って第一の支配人を務めた永田甚助が死んだので、佐々木はその後を継いで支配人に上ったのである。

 その後明治二十九年九月、国立銀行の名称を廃し、株式会社第一銀行と改称と同時に、取
締役に選任され、総支配人として事実上銀行の主権を握った。大正五年七月、渋沢が頭取を辞するに及んで、佐々木は代わって頭取に就任、今日に至ったものである。