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金子直吉(5)

 大里製糖の売却によって一躍金持ちになった鈴木はその後大した波乱もなくて、順調に発達した程度のものであったが、大正三年欧州戦争が始まって我財界が奈落の底に突き落されたとき、金子は一種の霊夢に感じたものか、その年の十一月頃、大戦の結果として世界の商品、殊に軍需品は、必ず暴騰するという判断の下に、当時の会計主任の日野に命じて鈴木の財産と信用を利用してできるだけ金をそろえさせた。そして、すべての商品船舶に向って買思惑を立て、ロンドンニューヨークを始めとして、中国、欧米各地に支店出張所を設けて、業務を大拡張した。当時世人は、金子のこの冒険的挙動を見て、金子は気狂いになったのかと笑った程であったが、金子の先見の明違わず、翌年二月頃から商品が暴騰し始めて景気が立ち直った。これが鈴木大あたりの第一歩で、その後一万トン級の貨物船三艘を三菱造船所に注文して世間をあっと言わせたことがある。四年、五年も続いて順風に帆を揚げた勢い、六年頃には鈴木の財産は一億二億を以て唱えられるようになった。
 この時金子は、鉄と船との大思惑をやっていたが、同年の初夏、米国はにわかに鉄の海外輸出を禁じた。これがため我国の造船業者は勿論、一般が大狼狼をした。この時まで、あまり世間に顔出ししなかった金子は、よんどころなく陣頭に現われて活動することになり、神戸オリエンタル・ホテルに多数同業者を集めて同盟会を組織し、大いに世論を喚起して、米国政府を動かし、鉄の輸出解禁を実行させることに努力した。政府もまた、逓信省、外務省の手を経て、駐日米国大使に掛け合うやら、駐米日本大使に米国政府に談判させるやら、あらゆる手段を講じたが、どうしても要領を得なかった。
 そのうち、六年十二月に米国大使ローランド・モリスが新たに日本に赴任したので、浅野総一郎がこの人に談判した。けれども、やはり不成功に帰し、それから外務省と逓信省とが連合で交渉したけれども、これまた不成功に終わった。
 モリスは、米国で破産管財人などを務めた法律家で立派なジェントルマンだということを金子は知っていたので、この人ならば我に口説き落す妙策ありと、七年二月外務大臣後藤新平の紹介状をもらい、頭本元貞を通訳としてモリスに談判したところ、僅か一時間にしてこの問題が解決した。これがすなわち当時やかましかった船鉄交換である。
 ドイツは表面強く見えて内実窮状に陥っていた。これを知った金子は、近く戦争が終息するという見当をつけ商品をどしどし処分したので、茂木は倒れ、久原等は傷付いたにもかかわらず、鈴木は比較的旨く始末をつけることができた。
 また戦後、ドイツは食料品の大欠乏を告げているのを知って、金子は麦粉を日本から、小麦を浦監、大連、アルゼンチンから、砂糖を日本、ジャワからとドイツに送った。当時、鈴木の信用は盛大なもので、電報一本で二千万円程度の商売をなし、英国の有力銀行から何千万円というクレジットを得、またその取扱貨物の大数量は、すべての定期船を利用した他にその積載船は、大正八年には九千トン級三十艘、大正九年には四十五艘の多きに及んだということである。
 大正九年、帝国海軍の八々艦隊建造の議案が可決され、製鉄造船業に、またまた花が咲き始め、鈴木関係の神戸製鋼所、播磨、鳥羽の造船所もまた活気を呈することとなった。また、大正九年の始め頃、ジャワ糖の思惑で一挙六千五百万ギルダーの大儲けをした。すなわち鈴木商店は、戦争中にもあたり、戦後の後始末も旨くやり、対ドイツ食料品の輸出、ジャワ糖の思惑等で着々成功したのである。けれども、百戦百勝の楚王項羽が、最後の一戦に敗れた如く、大正十一年二月、ワシントンにおいて調印された軍縮会議は、百雷の一斉落下、再起不能の大打撃を鈴木に与えた。
 これに先立って締結されたパリ平和会議はこの軍縮会議の導火線ではあったが、軍に表面上平和を口にするに過ぎないとみなされ、我国は八々艦隊の建造を决し、世界各国もまた軍備の大拡張を目論んだので、金子は勿論世界の軍需品供給者は、戦争の再発を密かに期待していたのであるが、この軍縮会議で一切の計画は夢となった。
 後年、英国ビッカースの社長が日本へ来て、「大正八年六月の平和条約よりも十一年二月の軍縮会議の方が恐しかった。その結果、ビッカース会社も一挙一億円の損失切下げを断行せざるを得なくなった」と痛嘆し、金子もまた「エライ目に逢いました」と、敗軍の将互いに過去を述懐して冷い握手を交わしたという。それ以来鈴木の業務は振わず、遂に昭和二年四月には巨木が倒れるかのように没落した。
 項羽は戦に敗れて「騅逝かず。騅の逝かざるを奈何すべきか。虞や虞や若を奈何せん」と嘆声を発したが、それでも項羽には虞美人があって多少の慰めとなった。金子には慰めてくれる美人とてはなく、脛を抱いて徒に華かなりし過去の夢を追うに過ぎなかった。