名古屋の唯一人者豊田佐吉の解剖を試みた私は、次に一路大阪方面に筆を馳せようとしたが、名古屋財界の古老で私の友人矢田績から、「今一人名古屋に隠れたる英雄あり、名を鬼頭幸七という、何ずれぞ彼を月旦せざる」との勧説に従い、鬼頭の経歴、性格について各方面に立って取り調べたところ、なかなかの人物、万人が亀鑑とする点が甚だ多いことに驚いた。
太閤が秀吉に、黄門が光国に独占されたように、近世の大番頭は、何といっても神戸鈴木商店の金子直吉だ。鬼頭は名古屋の伊藤(松坂屋)の番頭で、その地位資格において、金子と好一対の人物である。
金子は年中詰襟の洋服を着て、一身の利害を顧みず、専ら鈴木の発展に努力したが、鬼頭もまた粗服をまとい茅屋に甘んじ、己れを忘れて一意松坂屋の繁盛に腐心している。伊藤は、鈴木の全盛時代程ほど大きくはないが、名古屋の片田舎から出て来て、名古屋を本拠として、東京、大阪にもデパートメント・ストアを持ち、三越に対抗するほどの勢力がある。金子は、鈴木を大きくしたが、同時にこれを潰してしまった。彼には功罪ともにある。それから見ると、鬼頭は伊藤を大きくして、潰すどころか益々盛況に向わせつつあるのだから看板は兎も角、実質において鬼頭は金子よりも一枚上だ。日本一の「白鼠」の尊称は、鬼頭がもって行っても文句はいえぬ。
伊藤家の昔を尋ねると、祖先は織田信長の臣祐広から出ている。祐広が戦死し、信長が滅びるに及んで、その子祐道が清洲から名古屋に来て、慶長十六年に居を本町に移し、呉服太物の小売業を始めたのが、今日の株式会社松坂屋の濫觴である。慶長十六年から昭和四年までその間三百十八年の歳月が流れる。日本最古の老舗といってよい。
松坂屋は資本金千二百万円で、名古屋の本店は延坪六千坪、大阪は三千坪、東京の上野は八千五百坪、同銀座は二千五百坪、この他京都に仕入店があり、名古屋の栄町にも店がある。一ヶ年の売上高は実に一億円に上り、売上金額において三越に匹敵する。建物の坪数においては三越を凌駕し、一ヶ年の純益もまた三越以上で、しかも社債、借入金は一文もない。自分の金で大をなし、大世帯を切盛りしているのだ。先代治郎左衛門の人格と、当主の聡明にもよろうが、主として専務取締役たる鬼頭の努力の結果に帰するものといわねばならぬ。
鬼頭は、岐阜県海津郡大江村の渡邊という百姓の子に生れた。幼少の頃から伊藤呉服店の丁稚小僧に住み込み、主人に見込まれて伊藤家累代の番頭鬼頭家の養子に貰われた。
鬼頭は、当主次郎左衛門と同年の五十三歳、中肉中背で、体量は十五貫位、風采揚らず一見ただちに呉服屋の番頭という感じがする。この点も金子によく似ている。
弱冠にして小僧になったほどだから、鬼頭は正式の教育を受けたことがない。すべて実地の学問だ。境遇を最もよく利用して実地の経験で頭を作ったのである。軍隊に入ったときもそうだ。呉服屋の番頭だから算盤が上手、そこで主計卒に採用され、抜擢を受けて伍長に累進した。その間に、陸軍の経理学を会得したので、松坂屋の経営はすべて陸軍の経理式に出来ている。それで、着々成功したんだから、軍人上りの商人もまんざら馬鹿にしたものでもない。
鬼頭の学問は、実地のうんちくで、見聞を一々手帳につけて置き、自分の事業については、何一つ知らぬことがないという。松坂屋関係の建築設計者に、鈴木禎次という技師がいる。過日開店した上野松坂屋の設計が出来上がって、鬼頭にそれを見せて、食堂の広さは何坪でテーブルが何個、椅子が何脚、その高さ各々何程と、こと細く鬼頭に説明したところ、鬼頭は黙って競聞いていて、すべてポケットから手帳を取り出し、汽車の食堂のテーブルは高さ何尺巾何尺、三越の椅子の大きさは何程だから、今度新強するものは、この位にしてはどうかとやったので、鈴木はすっかり恐縮したということだ。
万事がこの筆法で、広告図案等についても、専門家をあっといわせることが多い。かつて庶務係から、店用の一定式の状袋や便箋をつくりたい、と申し出た時の如きも、鬼頭は、この便箋何枚をこの状袋に入れて郵便に出して、その目方が三銭の規定を超過せぬかどうかと反問したら係りの者は答えに窮したが、実は鬼頭は即坐に、この紙なら何枚迄は規定の目方以内だ、とキッパりといったそうだ。